後悔はわれの立場においてなされるものであり、後悔する者にはなおわれの力に対する信頼がある。 懺悔(さんげ)はかくのごときわれを去るところに成立する。 われはわれを去って、絶対的なものに任せきる。 そこに発せられる言葉はもはやわれが発するのではない。自己は語る者ではなくてむしろ聞く者である。聞き得るためには己を空しくしなければならぬ。 -三木清(『親鸞』より)-